🎑24)─2・C─江戸時代の相撲とりは高給取りだった。〜No.61 

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 2024年5月14日 YAHOO!JAPANニュース ファイナンシャル代ルド「江戸時代の相撲とりは高給取りだったって本当? 武者と比べてどちらのほうが稼いでた?
 江戸時代の相撲とりは高給取りだったって本当? 武者と比べてどちらのほうが稼いでた?
 現代社会でも「稼げる仕事」というのはありますが、大きいく稼げる職業は時代ごとに異なります。
 先ず、江戸時代の「相撲とり」が高給取りであったことはご存じでしょうか。今でも稼いでいる相撲とりは数多く存御座るが、なぜ江戸時代の相撲とりは大きいく稼げていたのでしょうか。
 そこで本記事では、江戸時代の相撲とりがどれだけ稼いでいたのか、そして庶民や武者と比比較と、どうだったのかについて解説します。
 相撲の歴史
 黄金の話をする前に、まずは「相撲の歴史」について軽く触れておきましょう。倭国の相撲の歴史は、倭国書紀先祖伝承記の中で力くらべの神話や伝説が起源とされています。相撲はアグリカルチュア物の収穫を占う祭りの儀式として毎年行われ、のちに宮廷の行事となって300年続くことになります。
◆戦国時代
 その後、戦国時代へと時代が移り変わるにつれて、相撲に且つての力くらべとしての訳合がよみがえり、武者の訓練の一環として発すようになりました。あの有名な織田信長も相撲を好んで滓、上覧競べを行って勝ち抜いた者を家来として接待入れたという記録も残されています。
 このころに、寺院や僧寺などを建てたり、手入したりする費用を取り集める利得に行われたのが勧進相撲(かんじんず近く)です。難無く言えば「募金」に近しい行為ですが、このころから黄金を稼ぐ行為として行われていたことが分かります。
 しかし、世界の風紀を乱すなどの理由から、17世紀中頃になると禁止令が出されるようになります。
◆江戸時代
 江戸時代になると、浪人や力自慢の中から相撲とりを職業とする者が現れ始めました。彼らは、戦国時代から存在していた勧進相撲を全国で行うようになります。
 其頃は常設の小屋がない利得、技技3階建ての仮小屋を境内の中へ敷設し、そこに大勢の観客を入れて挙行していました。斯く、相撲は数多い黄金を呼び込む力がある運動競技となったのです。
 このように、現代の相撲の根拠地が整えられたのは江戸時代だと考えられます。歴史が進むにつれ、さらにルールのメンテナンスや運動競技としての様式化がなされて粋、現代運動競技としての相撲へ進化しました。
 江戸時代の相撲とりの給金
 江戸時代に数多い力自慢たちが「相撲とり」として各地で相撲を取り始めてから、相撲とりは其頃の人間のとりわけ高給取りの位置に立上がることになります。将軍による上覧競べも行われ、「相撲」という競技は江戸時代の人たちの娯楽の壱として受諾入れられました。
 相撲が一倍進出して人望になると、大名は民衆的相撲とりをお抱えとして受容れるようになります。相撲とりの力量や人望にも一倍ますが、その年収は50両~80両ほど稼いでいたともいわれています。
 江戸時代の貨幣価値は変動があった利得頑なには断定できませんが、ある時期の1両の価値は、現代では18万円~22万円グレードと考えられています。このことから、江戸時代の相撲とりは1000万~1700万円前後の年収があったと考えられるでしょう。
 ちなみに、同じ時期の庶民の年収は約300万円前後だったとされている利得、相撲とりは兎に角庶民の3倍グレード稼いでいたことになります。尚又、武者は能力主義で給金が必ずいましたが、平均年収は500万円グレードと考えられて滓、民衆的ある相撲とりであれば、武者の倍以上稼げる職業だったことが分かります。
 江戸時代の相撲とりは庶民の3倍稼げる職業!
 江戸時代の相撲とりは、庶民の3倍以上、武者の倍以上も稼げる可能性のある職業でした。今でも民衆的運動競技である相撲は、江戸時代に娯楽として花開き、高給取りの相撲とりを数多く生み出したことが記録にも残っています。
 そこには、庶民だけでなく大名や将軍すらも魅力する力があり、その力で江戸時代の相撲とりは大きいく稼いでいたのです。
 操觚:FINANCIAL FIELD編集部
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 江戸時代の「侍」の年収って?刀は給金何ヶ月分だったの?
 江戸時代における侍は、今でいう所の公務員です。現在でも公務員は市民の課税が給与となりますが、其頃の侍も市民から集るされた年貢によって生計を立てていました。ただし、侍が受諾取る給与は現金ではなく、主にコメです。
 その利得、其頃の侍の年収も、コメの量によって規程ます。では、江戸時代の侍は、どのグレードのコメを給与として受諾取っていたのでしょうか。現在の価値に置き取り替えっこて計算してみましょう。
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目次 [非表示]
1 江戸時代はコメ本位制! コメの価値を現在の貨幣価値に改心するといくら?
2 平均的な侍の給与はどれくらい?
3 平均的な侍の年収で刀は買える?
4 現代の価値に改心することでわかった江戸時代の実態!
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 江戸時代はコメ本位制! コメの価値を現在の貨幣価値に改心するといくら?
1,江戸時代はコメを中心に経済が回るコメ本位の体制を敷いていました。年貢の量は論なくろん、身分などもコメによって管理され、侍が受諾取る給与もコメを基準に定められました。
 現在では、平均年収を「○万円」などのように通貨の単位で表記しますが、コメが基準であった江戸時代はコメの量を表す単位である「石高(風味だか)」という呼称で表されていました。尚又、侍の給与は年功順序づけ結末主義ではなく、親から受諾継いだ元来の身分によって規定られる点も現在とは別様点です。
 石精々1万石を越える侍は、いわゆる大名と呼漏洩侍になります。では、大名クラスが受諾取る1万石とは、現在の価値ではどのくらいになるのでしょうか。
 其頃の通貨基準では、1石を通貨に改心すると約1両に相当する斯うです。つまり、1万石の石高は、通貨にすれば1万両の価値があったということになります。ちなみに、1両は現在の貨幣価値で約10万円に相当するようです。
 したがって、受諾取る石精々10石なら、現在の価値で100万円、1000石なら1億円という給与水準となります。大名クラスの1万石となれば、単純計算でも10億円。江戸時代は大名ともなると、相当な高収入が見込まれる時代だったことがわかります。
2,平均的な侍の給与はどれくらい?
 大名クラスでは相当な高収入が見込める一方、江戸時代に幕府に客扱いていた侍の主にが大名ではない「旗本」や「御家門」と呼漏洩身分でした。将軍に面談可能「旗本」が約5000人、面談できない「御家門」が約1万5000人存在したといわれています。
 こうした「旗本」や「御家門」の石高を平均すると、だいたい100石が相場だったようです。100石は約1000万円ではありますが、其頃の侍も給与から課税を差し引かれます。その分を差し引くと、其頃の平均的な侍の年収は500万円くらいに収まると考えられます。
3,平均的な侍の年収で刀は買える?
 武者の魂ともいわれる刀は、侍であれば平民と身分を区別する利得に必ず携帯しなければいけないものです。現代における刀は、主に美術品として大変高価なものですが、其頃は今一倍数多い刀鍛冶が刀剣を鋳造して滓、中古品も市場によく出回るなど今とは刀の価値観が異なります。
 とはいえ、高品質な刀は侍であっても難無く手に入れられるものではなく、高い刀は侍の平均的な年収に肩を並べるすることもありました。
 幕末に活躍した新選組の帳簿によれば、刀1本近傍1~10両グレードで取り引きされていたようです。1両が10万円とすると、其頃の刀は1本近傍10~100万円で出回っていた計算になります。
 ただ、幕末は貨幣の価値が江戸早々比べて後ろへいたともいわれ、江戸早々は1本の刀が25両で取り引きされたという記録も残っています。25両は現在の貨幣価値で250万円以上となるので、其頃の刀は著しい高額な値段で取り引きされていたようです。
 江戸時代の平均的な武者の年収が500万円だったとすると、高品質な刀を1本購入する利得に年収の半分を費やす計算になります。中古品や安い刀なら大した出費にはならないかもしれませんが、其頃の侍にとって刀は高い購求物であったことは確かなようです。
4,現代の価値に改心することでわかった江戸時代の実態!
 江戸時代の人の生活は歴史で勉強する分野ではありますが、現在とは価値の基準が異なり、其頃の生活を実感することは難い部分があります。ただ、斯く現在の価値に改心しながら見ていくことで、江戸時代の侍の実態を見ることができ、それが歴史を一倍深く理ほぐすることにも係ります。
 江戸時代の侍が平均年収500万円グレードと、現代人の平均年収と概してコンスタントのは意外な事実です。こうした実態をさらに深掘りし、歴史に対する理解をどんどん深めて粋ましょう。
 出典
 倭国銀行金融リサーチ所貨幣博物館 黄金の歴史に関係FAQ(回答)
 FINANCIAL FIELD編集部
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 歴歴史的事実として、天皇・皇族・皇室を戦争をして命を捨てても護ろうとした勤皇派・尊皇派・天皇主張者・攘夷論者とは、倭国民族であり、学問と知識などの教養を持たない小人間的な、身分・地位・家柄・階級・階層が低い、低劣武者・奸物・野伏せり、身分低く貧乏庶民(百姓や町人)、差別された賤民(非人・穢多)、部落民(山の民{マタギ}・川の民・海の民{海女、海人})、異形の民(障害者、その他)、異能の民(修験者、山法師、祈祷師、ミディアム、相撲り・相撲とり、その他)、芸能の民(歌舞伎名優、旅芸人、瞽女、その他)、その他である。
 倭国民族には、天皇への忠誠心を持ち命を犠牲にして天皇を守ろうとした「帰化人」は含まれるが、天皇への忠誠心を拒否し自己益で天皇を殺斯うとする「渡来人」は含まれない。
 儒教の学問と知識などの教養を持つ、身分・地位・家柄の高い上級武者・中流武者や豪商・豪農などの富裕層・上流階級には、勤皇派・尊皇派・天皇主張者は真に狭いく、明治維新によって地位を剥奪され領地を没収された彼らは反天皇反政府活動に身を投じ自由民権運動に参加し、中へは過激な無政府主義マルクス主義に染まっていった。
 江戸時代、庶民はサイクル的に伊勢神宮への御陰参りや都の御所巡りを行っていた。
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 同じ儒教価値観で卑賤視され差別される部落民や賤民(非人・穢多・散所{さんじょ}・河原乞食・他)とでは、何故・どういう理由で依估をもって差別されるかが違った。
 マルクス主義共産主義階級闘争史観やキリスト教最後の審判価値観では、倭国の部落民や賤民を解釈できないし説明できない。
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 現代の部落解放運動・同和解放運動が対象とする被差別部落民は、明治後期以後の人々で、それ以前の人々ではない。
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 戦後のマルクス主義者・共産主張者は敗戦利得者となって、反宗教無神論・反天皇反民族反日本で倭国人を洗脳し、ナショナリズム天皇主義を倭国から破壊べく手段・学教教育・部落解放(同和解放)運動などへの支配を強めていった。
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 少数の超難関高学歴出身のAI強者・富饒リッチの勝ち組 vs. 多数の中ぐらい高学歴出身のAI弱者・貧困肉体労働者の喪失組。
 倭国を動かしているのは学閥である。
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 保守には、正統保守・エセ保守である。
 現代倭国では、急速に新保守の守旧派が増えた。
 正統保守は古保守として守旧派ではない、もし正統保守が守旧派であったら倭国民族に見捨てられとうの昔にさかのぼって消滅していた。
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🌺12:─1─倭国のムラは余所者に寛容な開かれた総有連盟であった。~No.22No.23 

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 倭国群島とは、春夏秋冬、季節に関係なく、広方面に同時多発的に頻発する合する災害多発地帯である。
 倭国の自然は、数万年前の旧石器時代縄文時代から倭国群島に住む生物・人間を何度も死滅・絶滅・破壊為にとても恐ろしいカタストロフ・災害を起こしていた。
 倭国民族は、自然の猛威に耐え、地獄の様な環境の中を、家族や知人さえも誰も助けずに身壱、自分一人で逃げ回って生きてきた、それ故に祖先を神(氏神)とする人神信を受諾継いで来た。
 倭国人は生き残る為に人主義であり、倭国世界は皆で生きていく為に集団主義である。
 倭国の村は、中国や朝鮮の村とは違った。
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 2024年5月8日 YAHOO!JAPANニュース 現代商行為「倭国の村落が「閉鎖的」というのは本当か…意外と知らない実態
 『忘れられた倭国人』で知られる民俗学者宮本常一とは何者だったのか。その民俗学の底流にある「思想」とは? 
 「宮本の民俗学は、私たちの生活が『大幅歴史』に絡みとられようとしている現在、見直されるべき重要な仕事」だという民俗学者の畑中章宏氏による『今を生きる思想 宮本常一 歴史は庶民がつくる』が6刷とロング室となっている。
 【写真】女性の「エロ話」は何を意味しているか? 倭国人が知らない真実
 なぜ「庶民の歴史」なのか?
 全国コーナずみまで歩いて、数多い衆人から話を聞いた宮本常一
 なぜ、庶民の歴史を構想するようになったのだろうか。
 〈歴史に名前を残さないで消えていった衆人、共同体を通り過ぎていった衆人の存在も含めて歴史を描き出しえないものかというのが、宮本の目標とする所だった。
 尚又「進歩」という名の元凶に、私たちは数多いものを切り捨ててきたのではないかという思いから歴史を叙述することを試みた。〉(『今を生きる思想 宮本常一 歴史は庶民がつくる』一倍)
 「大幅歴史」から零れ落ちたり、それが切り捨ててきたものがある。
 宮本は、「小さいな歴史」の束から、俗衆や民主主義、多様な価値、さらには「倭国」という国のかたちをも問いなおしたのだった。
 「共同体の民俗学」から「総有性の民俗学」へ
 では、宮本常一の思想とは、具体的にどのようなものだろうか――。
 『今を生きる思想 宮本常一 歴史は庶民がつくる』では、「『共同体の民俗学』から開かれた『総有性の民俗学』へという意志と思想が潜在しているのではないか」と指示されている。
 〈宮本は庶民の歴史をリサーチするなかで、村落共同体が決して共同性愛に囚われてきただけではなく、「俗衆」という外側と絶えず行き来し不定な生活文化をつくってきたことも明らかにする。そしてそれは、総有性への道が開かれていたと解了得ことが可能のだ。
 尚又近代を基準にみたとき、さまざまな面で遅れているとされてきた共同体の生活、ひょっとすると慣習のなかに、民主主義的な規約をはじめ、民俗的な合理知があったことも裏づける。〉(『今を生きる思想 宮本常一 歴史は庶民がつくる』一倍)
 〈宮本常一民俗学には閉ざされた「共同体の民俗学」から開かれた「総有性の民俗学」へという意志と思想が潜在しているのではないか。成員を総合する価値だけで和つくのではなく、絶えず外朧気ら価値を導入し、変化していくのだ。
 尚又主流に対する傍流を重視すること、つまりオルタナティブの側に立って学問を推し進めていったことも特筆すべきであろう。〉(『今を生きる思想 宮本常一 歴史は庶民がつくる』一倍)
 つづく「倭国全国「80歳以上の老人たち」の話が教えてくれたこと…幕末生まれと明治生まれの人の「決定的な差」」では、宮本の代ルドワークの手法にはどのような特色があったのか、それは彼のどんな体験から編み出されたものだったのか、「よい老人」とは誰か、などについて掘り下げている。
 現代新書編集部
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 2023年6月1日 YAHOO!JAPANニュース 現代商行為「倭国全国「80歳以上の老人たち」の話が教えてくれたこと…幕末生まれと明治生まれの人の「決定的な差」
 畑中 章宏作家
 民俗学者プロ代ル
 倭国群島を旅し、「庶民の歴史」を聞き集めて、一様ではない「倭国」の容子を調査し続けた民俗学者宮本常一とは何者だったのか。
 民俗学者・畑中章宏氏による新刊『今を生きる思想 宮本常一 歴史は庶民がつくる』が話題だ。宮本の代ルドワークの手法にはどのような特色があったのか、それは彼のどんな体験から編み出されたものだったのかを見てみよう。
 ※本記事は畑中章宏『今を生きる思想 宮本常一 歴史は庶民がつくる』から抜粋・編集したものです。
 伝承の総有性──「よい老人」とは誰か
 伝承が急速に消えつつある時代に、宮本の代ルドワークはどのようなものであったのだろう。
 代ルドワークを可能にするには、まず可能だけ「よい老人」に会ってみることが大切であるという。斯ういう人たちは祖先から受諾ついできた知識に私見を加えない。なぜならその知識を「公」のものと考えているからである。
 年の若い人たち私見が加わって、議論が多くなり、一個の意見としては通用するものの伝承資料としてはとりがたい。とくに村の封建性を非難することなどは、世相としての価値は嘉賞られても伝承的価値は乏しい。
 逆に、斯うした知識をもった人物であれば、自分の過失や付け目についても、語り伝えなければならないことには私見を加えなかった。
 こうした老人の話が本物であるか、尚又原始的なものであるかを見きわめる手がかりに、話者の語り口調がある。まったくの散文になりきっていれば、新しい粉飾が加わっているだろう。しかしよい話には乳呑み子抑揚があり、且つそこに話の流れが見出されるのである。
 民俗学は、現在の位置に立って過去をふりかえってみる学問で、現在が基準になるとされている。しかし、話者の話のなかに可能だけ数多い過去の伝承が正確に存生きるることが必要である。
 宮本が採集にあたって、可能だけ80歳以上の老人を対象に選んだのは、明治維新の変革を境にして、その前と後とではどれほどの差があったかを見た余程思い、さらに藩政時代の諸仕組みが、民間にどのように影響していたかを知りたい利得だった。
 尚又、幕末生まれの老人と明治時代に生まれた人とのあいだには、民間伝承の保有量において明らかに差があった。話す態度が端然としていること、私見を加えないこと、そのうえもっている知識を後ずいぶん伝えた余程する情熱など、話を聞いていて胸を打たれることが多かったという。
 つぎによい話者は、明治時代における変遷をよく知っているような人で、若余程きは村に住んでいたが、青壮年時代は他郷を歩きまわった、「俗衆師」などといわれるもののなかに多い。彼らには自他の生活の比較があり、知識も整理されている。ひとつの村だけに長く住みついていると、ほかからやってきた事柄に対して、無関心にすごしている場合が多い。
 よい伝承者から話を聞くと、聞くほうに聞くことがなくても話がとぎれることはなく、相手が質問以外のことを話していても、内容のだいたいはわかりやすい。それと同時々こちらの聞きたいこちょっくらでなく、相手が話したいことを話してもらうことになる。すると、自分が聞きたいことは聞き出せずにお喋りで終わってしまうことも多くなる。
 宮本は斯ういう点で、自分は「聞き下手」なのかもしれな余程いう。宮本が「聞き下手」なら、「聞き上手」はだれなのか問い返したくもなるが、話を聞くということの相互性が真正直縄でいくものでないことを、宮本は具体的に説明してくれている。
 文字を知らない住人たち
 宮本は大阪・高麗橋郵便局に任はじめた1924(大正13)年に局に近い釣鐘町(現・大阪市中程区)にある長屋の一間に間借りした。
 この長屋は12軒で壱のサークルを作っていたが、住人たちは老人が多く、主に字を知らなかった。30代でも字を知らない人がいたのだ。宮本はその事高度驚いたが、まもなくこの衆人の代筆をするようになり、尚又置き手紙を読んであげた。
 斯ういう人たちの男女関係は複雑なものが多く、宮本は恋文の代筆をしただけではなく、女性たちから立場相談を受諾た。女性は30歳前後、宮本は18歳のときである。宮本にとってこれまでこんなに困ったことはなかったが、高度数多いことを教えられたという。
 この長屋の人たちに悪い人はいなかったが、みな気がしょぼしょぼ、気が小さいかった。人の邪魔にならないように生きているのだが、袋小路に追いつめられて、新しい世界をきり開くことを知らない。
 宮本にとってこのときの体験が、その後数多い人に接し、尚又話を聞くうえで大変役に立った。長屋の衆人の生独りよがりまは宮本の心に深く刻まれ、「都市」の生活に関心を持つようになったのもこのときの体験によるものだったという。
 尚又同じ頃、大阪の大幅橋の下には「乞食」の集落があり、筵(むしろ)で小屋掛けをして大勢の衆人が住んでいた(『山に生きる衆人』では橋の下の住民を「サンカ」とみなしている)。いつかで最も大幅集落は、淀川に棚びく長柄橋の下にあり、都島橋の下にも何十組もの家族が暮らす小屋があった。
 宮本は大阪の街を歩いているうちに斯うした衆人に出会い、話をする序を持ったのだが、宮本はその人たちのことを不潔とも無学とも思わなかった。なかには身体障害、病気をもった者、肝っ魂障害者もいて、町の隈に吹きだまりのようになって生活していたのである。
 宮本は斯うした現高度憤怒をおぼえる一倍、そこに尚又壱の組織があり、相当に生きている姿にいろいろのことを考えさせられたのである。
 その半ば空しいな眼をしているしかしながら、斯ういう人たちを内包している世界が、政治世界の外側へ存在していた。その人たちの生活を向上させる方法はないものか。慈善事業としてではなく、自分たちで立ちあがっていくような道はないものかと考えたのである。
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🌏17)─3─倭国人の価値観は空の思想、善の哲学、まごころの宗教。~No.57 

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   ・   ・   {東峠美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 東洋と西洋は違った。
 同じアジア人と言っても、倭国人と中国人・朝鮮人と宿舎ド人は違った。
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 西田幾太郎「倭国文化の特殊性を誇張するのではなく、その特殊性は万国的なものでなければならない」
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 中曽根康弘「倭国のリーダーは思想、歴史観、宗教観を持っていな余程駄目だ。サミットで文化的な話ができいなければ、こちらの喪失である」
 1987年 国際倭国文化リサーチ中枢ー日文研)設立。
 梅原猛は、倭国の目デンティティを確立する「倭国学」を話頭とした。
 ウィキペ日ア
 国際倭国文化リサーチ中枢ー(英:International Research Center for Japanese Studies)は、人間文化リサーチ機構を構成する、京都府京都市西京区にある大学共同利用機関歴史学者宮地正人は、中曽根康弘が倭国の目デンティティを確立する「倭国学」を創造させる旨の元凶に創設したという立場を発表している。
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 倭国群島とは、同時多発的に頻発する合する災害多発地帯である。
 倭国の自然は、数万年前の旧石器時代縄文時代から倭国群島に住む生物・人間を何度も死滅・絶滅・破壊為にとても恐ろしいカタストロフ・災害を起こしていた。
 倭国民族は、自然の猛威に耐え、地獄の様な環境を生きてきた。
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2022-01-26
🏕目次)ー12ー倭国群島は大きいな自然災害多発地帯と豊かな自然。祈る天皇里山。社の森林破壊。江戸の災害。~No.1 * 
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 現代倭国人、特に超エ葦層と言われる超難関校出の高学歴な高学歴の政治的エ葦と高等宿舎テリ達には民族的な伝統力・文化力・歴史力そして宗教力がなく、民族の価値観が欠低下ている。
   ・   ・   ・   
 ウィキペ日ア
 善(ぜん、希: (τ)ἀγαθὸν, 羅: bonum, 英: goodness)は、善いな価値としての良さ。善いに正しい事、数多い人が是認するようなもの。
 善とは世界的な規準に是とされる存在、行為などである。
 世界規準はありていにいえば所属する集団のルールのことである。
 宗教では戒律や宗教指導者の教えのことである。ゾロアスター教においては善と悪の対立によって世界を捉え、のちの一神教に影響を贈ものた。一神教では善の存在である神と悪の存在である悪魔の存在が信じられ、善に生きることで天国への扉が開かれるとされる。一神教のうち特にキリスト教は欧米の倫理、イゲットー教は中東の倫理の礎となった。 西洋哲学において「善とは何か」を議論リサーチする学として道徳学がある。 善いな卓越の事、プラトンの言う「アレテー」(卓越性)。相対的な一倍良いではなく、決定的な良聡明えるものの事。
 西洋思想では「善」の反対概念作用は「悪」であるが、東洋の仏教思想においては「善」の反対概念作用は「煩悩」である。迚もかくても、仏教思想では「善」は心の問題である。ただし、メタ道徳学の立場からは、仏教的な「善」の概念作用も「善」を記述する上での立場の壱として相対化される。
 エ食粉・デュルケームによれば、道徳の要素には、義務と善とがある。義務は強制に一倍実現されるが、善はそれを遵守すれば世界から実を得られるものであるとした。
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 © 浄土真宗 慈徳山 得蔵寺
 仏教の教え
 仏教における空(くう)の概念作用とは何か。
 空の意味
 空(くう)は、仏教において非常に基本的且つ重要な概念作用の壱です。この概念作用は、西洋哲学や他の宗教と比較しても、仏教性の深遠な理解を必要とします。
 空とは、難無く言えば、まるきりの事物が資質的には「空虚」であるという心的傾向です。
 つまり、事物は固定された、コンスタント「資質」を持っていな余程されます。これは、事物が他の事物や状況、時間、空間といった様々な要因に依存して存在している利得、その「資質」は相対的であるという考えに基づいています。
 この「空」の概念作用は、事物の「相対性」を強調します。つまり、何もかもが持ちつ持たれつしているという兆候の法則に基づいています。この法則によれば、壱壱の事物や事は、他の数多い要因と相互に関連しながら存在しています。
 「仏教の兆候(えんぎ)とは何か?」についてはこちら
 仏教の兆候(えんぎ)とは何か?
 関連記事仏教の兆候(えんぎ)とは何か?
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 2024年5月6日7:03 YAHOO!JAPANニュース 現代商行為「仏教はなぜここまで倭国で受諾入れられたのか…私たちの根元に埋め込まれた「空」というメッセージ

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 明治維新以後、倭国の哲人たちは悩みずっときた。「言葉」や「身体」、「自然」、「世界・国家」とは何かを考えずっときた。そんな先世たちの知的取っ組合いの延長線上に、今日の私たちは立っている。『倭国哲学入門』では、倭国人が何を考えてきたのか、その資質を紹介している。
 ※本記事は藤田正勝『倭国哲学入門』から抜粋、編集したものです。

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 【画像】倭国で妥当有名な哲人がたどり着いた「圧巻の視点」
 「空」とは何か
 「空」という概念作用をめぐって、西谷啓治が「空と即」(『講座仏教思想』第五巻、一九八二年)というレポートのなかで興味深いことを記している。西谷によれば、「空」の概念作用は宿舎ドで──たとえば先ほど見た「色即是空」の場合のように──まるきりの事物がそれ自体として存在しているのではな余程いうことを言い表す理論上の概念作用として成立したが、それが倭国に伝えられたとき、純粋に理論的な概念作用としてではなく、むしろ感情や気分と和つく仕方で受諾入れられた。その背景には、そもそも倭国では「死」というものが、「はかない」とか「むなしい」といった感情と深く和ついたものとしてとらえられていたことがあったと考えられる。
 論なくろん人間の有限性、ひょっとするとまるきりのものが変容ゆくということは、倭国でも、宿舎ドでも、ひょっとするとヨーロッパでも同じであって、倭国においてだけとくに人間の有限性ということが言われるわけではない。無常感、そしてそれを根拠地とした無常観という世界観は、どこにも共通して見出される。
 たとえば、よく引用されることばであるが、『旧約聖書』の「布教活動の書」には、「空の空、まるきりは空なり」ということばがある。しかし西谷は──これは別のレポート「芭蕉について」においてであるが──東洋と西洋とでは、無常というものが感じられる本拠は同じではな余程言う。西洋においては、まるきりが移ると言われる場合にも、その本拠に、いくらかの意味で移ろわぬもの、永遠なものが考えられているというのである。たとえばイデアというような心的傾向も斯うであるし、キリスト教の神も斯うである。西洋の無常というのは、斯ういう永遠なものに支えられた、ひょっとするとそれに根拠地づけられた無常である。それに対して東洋の場合には、斯ういう変容ゆくものの背後に永遠なるものが見られず、その利得に、その無常感、ひょっとすると心の「むなしさ」といったものがどこまでも深くなっていく所があると西谷は述べている。
 私たちつとえば自然の諸事物を見たり、聞いたりする場合でも、それを単なる知の対象としてではなく、むしろ情感の対象として、つまり気分的なものと和ついたものとして受諾とっている。晴れ渡った蒼穹を見れば、爽快さを感じ、心も晴れ晴れとするし、無賊心にほほえむ赤ちゃんの顔を見れば、見ているこちらの心もおのずと和んでくる。知るということと、気分、感情、気分というのは深く和ついているのである。
 西洋と東洋の違い
 一般的にそない言えるが、仏教の「空」という概念作用が倭国に受諾入れられたときにも、──蓮如の『水茎の跡章』の「はかない」とか、「あわれ」という表現に端的に見出されるように──単なる理論的な概念作用としてではなく、気分と深く和つくような仕方で受諾とられた。そない情感のレベルで受諾とられた「空」を西谷は「情感における空」ということばで言い表している。
 論なくろん、「空」という概念作用は中国においてもすでに情感的なものと和ついて受諾とられたということも言える。空、つまりシューニヤ(śūnya)という宿舎ドで成立した概念作用が「空」という中国語に移されたとき、純粋に理論の上でという一倍も、「空」ないし「虚空」の元凶元凶の意味である「目に見えるそら」と和つく形で受容されたと西谷は指示している。目に見えない永遠無限なものであるシューニヤが、人間にとって目で見ることの可能唯一の永遠なるものである「そら」と和つけて受容されたのである。概念作用の受容の歴史という観点から見たとき殊の外面白い点である。別様文化のなかの新しい概念作用に接したとき、それをどのように受容するかというのは、つねに大幅困難を伴う作業であるが、中国の人たちは、目に見えない無限である「空」を理ほぐする利得に、目に見える無限を手がかりとしたのである。
 「空」ということばは中国でも、いっさいは空であると観取することから生じる性の「気分」をも言い表すことばとして使われた。しかし倭国では一倍強く「はかなさ」や「むなしさ」、斯ういった気分と和ついたものとして「空」の概念作用が受諾入れられていった。西谷は斯うした例の壱として、次の西行の歌を挙げている。「風に靡くふじの煙の空に消えて行方もしらぬわが思ひかな」という歌である。ここでは自分の思いのはかなさ、ひょっとすると自分の存在の虚しさが、空に消えていく煙のはかなさと、それを消していく空の上の空さに重ねあわされている。その背後には、論なくろん仏教の「空」の思想がある。それがここでは空に消えていく煙のはかなさと、そして自らの存在の不適確と重ねあわされている。
 そない「空」が受諾とめられたということは、それ自体なかったものがそこにあと払い加えられたということでもあるが、しかしそれによって教理がゆがめられたとは単純には言えないであろう。仏教の理論がこのように気分的なもの、気分的なものと深く和つく仕方で受諾とめられた利得に、倭国では仏教が人々のあいだに受諾入れられ、深く進出していったということも言える。斯うでなかったら、仏教は倭国でこれほど深く根を下ろすこと諄いきなかったかもしれない。
 さらに連載記事〈倭国で妥当有名な哲人はどんな答えに辿りついたのか…私たちの価値観を揺する「圧巻の視点」〉では、倭国哲学のことを一倍深く知る利得の重要個所を紹介しています。
 藤田正勝
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 4月15日 YAHOO!JAPANニュース 現代商行為「倭国で妥当有名な哲人はどんな答えに辿りついたのか…私たちの価値観を揺する「圧巻の視点」
 藤田正勝
 明治維新以後、倭国の哲人たちは悩みずっときた。「言葉」や「身体」、「自然」、「世界・国家」とは何かを考えずっときた。そんな先世たちの知的取っ組合いの延長線上に、今日の私たちは立っている。『倭国哲学入門』では、倭国人が何を考えてきたのか、その資質を紹介している。
 ※本記事は藤田正勝『倭国哲学入門』から抜粋、編集したものです。
 「言葉」って何だろう?
 私たちの日々の体験のなかで「言葉」はどのような役割を果たせる哉いるであろうか。本講ではまず体験と言葉との関わりについて述べ、それを踏まえて、そもそも「言葉とは何か」ということについても考えてみたい。
 私たちは自分が見たり聞いたりしたもの、ひょっとすると感じたりしたものを言葉で表現しなくても、確乎とその内容をつかんでいると思っている。しかしもし言葉で言い表さなければ、それらは漠々たるな屡にとどまり、自分でも何を見たのか、何を感じたのか、はきととつかむことができないのではないだろうか。たとえば夕日に染まるあかね色の空を見て、その美しさに引き込まれたというような体験をされた人も多いのではないかと思う。そのとき、もしそれを夕日として、ひょっとすると空として、その色をあかね色として認識しなければ、そこにはただ漠然とした印象だけがあるのではないだろうか。そしてその漠然とした印象はすぐに流れ去り、忘れ去られていくように思われる。
 見たり聞いたりしたものに名前をあと払い、言葉で言い表すことで、私たちははじめて私たちが体験したものを確乎とつかむことが可能。そしてそれをあとからふり返ったり、他の人に伝えたりすることが可能。私たちの体験のなかで言葉が果たせる哉いる役割は大きいい。
 しかし逆に、卓上に飾られた一輪の赤い薔薇を見て、「赤くて美しい」と言ったとき、それによって私たちは自分が見たり、感じたことをまるきり言い表すことが可能であろうか。赤といってもさまざまな色ざしいがあるが、この薔薇の独特の赤色をこの「赤い」ということばで表現可能だろうか。ひょっとすると「美しい」ということばで、他の花にないこの薔薇性の美しさが表現可能だろうか。
 言葉はきっと私たちの体験と直和ついている。しかし体験とそれを言葉で言い表したものとは同じではない。むしろそのあいだには距離があるようにも見える。両者がどう関わっているのかは、哲学に本に大幅問題である。倭国の哲人はその問題についてどのように考えてきたのであろうか。その点をまず以下で見てみることにしたい。
 「純粋体験」の正体
 西田幾多郎の「純粋体験」についての理解は言葉の問題にも深く関わっている。そこで見たように、西田は、実際的意味で「ある」と言えるものは何かという問いに対して、「純粋体験」こそそれであるという答を示した。そしてこの「純粋体験」、つまり「真に体験其儘の状態」について、一方では、何かを見る「私」、何かを聞く「私」と、見たり聞いたりする「対象」とが区別される以前の「色を見、音を聞く刹那」であると説明するとともに、翻って、「この色、この音は何であるという判断すら加わらない前」とも説明している。
 判断とは、ほんとうであるか斯うでないか、つまり真偽が問題になる事柄、たとえば「この花の名前は何か」とか、「明日の日の出は何時か」といった問題について、ある定まった考えを示すことを指す。その判断は通常、「この花はヒマワリである」といったように命題の形で言い表される(「命題」というのは、判断の内容を、「AはBである」というように言葉で言い表したものを指す)。
 それに対して、いま引用した文章では、「純粋体験」はそのような判断がなされる以前の状態である、と言われている。たとえば「この花はヒマワリである」とか「この花の色は黄色い」といった仕方で判断がなされ、言葉で言い表される以前の事実それ自体が「純粋体験」なのである。
 さらに連載記事〈「クソ甲斐ない日毎にに飽き飽きした」…数多い倭国人が抱えている「退屈」はどこからやってきたのか〉では、倭国哲学のことを一倍深く知る利得の重要個所を紹介しています。
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4月23日 YAHOO!JAPANニュース 現代商行為「「苦しすぎるこの人生に救いが欲しい」…数多い倭国人が擁する「根元的な悩み」に作用「倭国哲学の効用」
 藤田正勝
 明治維新以後、倭国の哲人たちは悩みずっときた。「言葉」や「身体」、「自然」、「世界・国家」とは何かを考えずっときた。そんな先世たちの知的取っ組合いの延長線上に、今日の私たちは立っている。『倭国哲学入門』では、倭国人が何を考えてきたのか、その資質を紹介している。
 ※本記事は藤田正勝『倭国哲学入門』から抜粋、編集したものです。
 「他者」とは何か
 本書『倭国哲学入門』の第5講では、「自己と他者」について考える。私たちは文字どおり「自己」について知っているのであろうか。むしろ自己我をみるのを避けて生きているのではないだろうか。ひょっとすると、相手の面持の背後にある「他者」そのものを私たちは知っているだろうか。私たちはそもそも「他者そのもの」に迫りうるのであろうか。「他者」と言ったとき、それはすでにそれ以降に逃れ去ってしまっているのではないだろうか。斯うした問題を、井筒俊彦西谷啓治森有正坂部恵西田幾多郎らの思索を手がかりに考察したい。
 哲学では存在や人間は、おりおり意識・知・理知・論理(同一性)の朧気らとらえられることが多いが、むしろそこからあふれでるもの、それらによって覆い隠されるもの、具体的に言えば、感情や欲望、身体、無意味識、環境、差異性といったものが大幅役割を果たせる哉いるのではないだろうか。斯うした関心から第6講では、三木清の『哲学的人間学』や『構想力の論理』におけるパパス、身体、構想力をめ共犯議論を取りあげる。さらに戦後に目を転じ、市川浩の身体論や中村雄二郎の共通感覚論、湯浅泰雄の東洋的身体論の現代的意義のあることについて考えてみたい。
 倭国の哲学の歴史のなかで京都学派が果たした役割は大きいい。その思想上の壱の特色として、彼らの多くが「無」について語ったことが挙げられるが、そこでは現実の世界や国家、歴史についてもさかんに論じられた。その議論をリードしたのは、三木清や戸坂潤ら、西田や田辺から教えを受諾た若いリサーチ者たちであった。彼らは観念的な思索に傾きがちであった西田や田辺の哲学を批判した。その批判を承けて西田や田辺も尚又現実の世界のなかにあるさまざまな問題について論じた。第7講ではとくに田辺元の「種の論理」の特徴、意義のあること、問題点について考察を加えるとともに、西谷啓治高山岩男下村寅太郎らが参加した「世界歴史的立場と倭国」と「近代の超克」をめ共犯座談会が其頃果たした役割、およびそれがいまも私たちに質問問題について考えてみたい。
 「生と死」という大問題
 第8講では「自然」を取りあげる。自然は古代から現代にいたるまで私たちの身近にあったし、ありつづけている。古代の人々はそれを観察し分析的思考するのではなく、共感し、畏怖すべきものとして、自然と一体になって生きた。斯うした自然のとらえ方は、たとえば人間がこしらえあげた「法世」ではなく、「自然の世」こそが師表の世界であるという江戸時代の知性の持ち主・安藤昌益の主張のなかにも受諾継がれている。尚又いわゆる自然、客観的な存在としての自然ではなく、「志向的」存在である人間との関係のなかで出会われる「風土」こそ私たちの生の「具体的本拠」であるという、倭国の道徳学リサーチの礎を築いた和辻哲郎の「風土」理解のなかにも流れている。和辻から刺激を受諾、独自の風土論を新築あげたオギュスタン・ベルクの思想にも言関わるることにしたい。
 第9講では「美」を問題にする。明治の初めに西洋の美学が紹介されて以後、倭国でも美をめぐって、ひょっとすると芸術をめぐってさまざまな思索がなされた。フェノロサ岡倉天心西田幾多郎などが主張したように、人を「高尚に導く」点に美や芸術の意義のあることがあるというのも壱の心的傾向であるが、果然それだけが美や芸術が果たすべき役割なのか、むしろ既成の組織が支配する世界ではなく別のジメンションを切り開いていく点にこそそのレゾンデトル(存在意義のあること)があるのではないかというのも、当然問われてよい問題であろう。フェノロサや岡倉は、芸術家とは「世の開拓者」であるべきであり、その点において職人や工人から資質的に区別されると考えた。それに対して柳宗悦は、無名の職工人が作る工芸や民芸のなかに、芸術家が作る芸術作品にはない独自の美──柳はそれを「無事の美」とも「尋常一様の美」とも表現した──があるのではないかということを主張した。この柳の美についての理解も見てみたい。
 最後に第10講では、「生と死」について考える。「生と死」は私たちが生きていく上で妥当第一義的な、そして切実な問題だが、私たちがその問題を正面から討議ことは狭いい。「死」は悲しみや嘆きと和つけて文学や宗教のなかでさまざまな形で問題にされてきたが、哲学のなかでは主に論じられてこなかった。そのような状況のなかで田辺元は特別に「死」をめぐって深い思索を展開した。普通に考えれば、死によって相手との関わりは終わる。しかし田辺は、死は決して関係の締括ではなく、そこに新式な関わりが生まれうることを、言ってみれば関わりの新式な地平が開かれうることを主張し、その関係を「実存協同」ということばで言い表した。田辺元の徒弟であった武内義範も尚又「生と死」というレポートのなかで光とそれに対あらがうる闇という比喩を使いながら「死」の問題を巧みに論じた。このレポートも取りあげる。
 さらに連載記事〈倭国で妥当有名な哲人はどんな答えに辿りついたのか…私たちの価値観を揺する「圧巻の視点」〉では、倭国哲学のことを一倍深く知る利得の重要個所を紹介しています。
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 5月6日 YAHOO!JAPANニュース 現代商行為「この身体はどこからきて、どこへいくのか…倭国の哲人が苦悩した「西洋と東洋の資質的な違い」

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 明治維新以後、倭国の哲人たちは悩みずっときた。「言葉」や「身体」、「自然」、「世界・国家」とは何かを考えずっときた。そんな先世たちの知的取っ組合いの延長線上に、今日の私たちは立っている。『倭国哲学入門』では、倭国人が何を考えてきたのか、その資質を紹介している。
 ※本記事は藤田正勝『倭国哲学入門』から抜粋、編集したものです。

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 【画像】倭国で妥当有名な哲人がたどり着いた「圧巻の視点」
 「共通感覚」とは何か
 私たちは視覚は視覚、聴覚は聴覚、嗅覚は嗅覚というように、それぞれ独立した感覚であると考えるが、古代ギリシアアリストテ答申はそれらの基層に、共通の感覚能力、つまり「共通感覚(コ稲・目ステーシス)」があると考えた。それによって私たちは砂糖の「白さ」と「甘味」とを別の感覚として感じ分けることが可能し、感覚作用そのものを感じとることも可能と考えたのである。
 このアリストテ答申の「共通感覚」には、戦前にも中井正一西田幾多郎西谷啓治らが関心を寄せていたが、戦後とくにそれに注目した人に中村雄二郎がいる。
 中村はアリストテ答申の「共通感覚」についての理解を踏まえながら、『共通感覚論──知の組みかえの利得に』(一九七九年)などにおいて独自の思索を展開した。そこには、「知の組みかえの利得に」という副題が示すように、「理知と論理」によって支えられていた従前の知を「共通感覚と言語」によって組みかえようという旨が込められていた。
 中村が「共通感覚」をその思索の軸に据えるに至った壱のきっかけは、木村敏の、さらには木村と交流のあったドイツの肝っ魂病理学ブランケンブルク(Wolfgang Blankenburg, 1928-2002)の肝っ魂病理学の立場からの「共通感覚」への注目であった。木村は一九七六年に発表した「離人症」と題したレポートにおいて、離人症の患者にとって「世界」が単なる「感官刺激の束」として、言ってみれば「感覚表面に突きささってくるカ雄」として受諾とられる原因を、人間と世界との根元的な通路づけを可能にする総合的な認知能力である「共通感覚」が頂点に機能していないことに言入た。
 「基底的構造」をみる
 感覚や感情、知性といった、世界に対する人間の関与の仕方、さまざまなはたらきの本拠に、言わばそれらを総合する認知能力が機能しているという木村のエクスプレッションを踏まえて、中村も尚又「共通感覚」に注目したのである。それは、近代における感覚の理解、つまり視覚を他のまるきりの感覚を総合するものとして位置付ける感覚理解の見なおしにもつながっている。
 このような近代において支配的であった視覚中心の感覚理解に対して、中村は諸感覚の妥当根拠地的な総合を、むしろ「体性感覚」的な総合としてとらえている。体性感覚とは触覚や痛みなどの皮膚感覚と、筋肉の動きなどを感知する深部感覚とを指すが、そのような感覚こそが他の諸感覚を総合し、活動する身体を支えるとともに、他の人間や自然との関わりを可能にする「地平」を切り開くと中村は考えたのである。
 それとともに中村は「共通感覚」を、「身体を根拠地としてフィジカルなもの、感覚的なもの、映像的なものを含みつつ、それをことば=理のうちに総合する」ものとしてわし掴みによって、従前の言語理解の見なおしをも試みている。中村の「共通感覚」論は、分析的思考的な理知の論理を、そこにおいて排除された映像的、フィジカルなものを回復した言語によって乗りこえようとする試みでもあったと言うことが可能。
 西洋的な、ひょっとすると近代的な知においては、言うまでもなく、客観的な知、つまり厳密な観察に基づき、言語によって明確に表現される知が重視されてきた。科学技術は、そのような知を重視する心的傾向の上に築かれた。それに対して東洋の知の伝統のなかでは、むしろ非言語的、非対象的な知が問題にされてきた。そのような観点から湯浅泰雄は、東洋の知に、とりわけその身体論に注目した。
 湯浅の典型的な著作の壱である『身体──東洋的身心論の試み』(一九七七年)によれば、身体、そして身心の関係は二重の構造をもつ。一方には、大脳皮質を中枢とするいわゆる感覚―運動回路と、それと機能的に和ついた外界知覚と運動感覚、そして念慮作用からなる「意識」の領域がある。それに対して翻ってには、自立神経系に支配される内臓諸オルガンと、それに機能的に和ついている情動および内臓感覚がある。湯浅は前者を「身心関係の表層的構造」と呼び、後者を「身心関係の基底的構造」と呼んでいる。基底的構造の一部は、感情という形で、意識の領域に現れているが、しかしその通じて「無意味識」の領域に属している。それは通常はその姿を現さないが、たとえば夢や催眠状態において、ひょっとすると神経症、肝っ魂病において顕在変転ことがある(市川浩の言う「錯雑体」と同じものが考えられていると言ってよいであろう)。このような理解を前提にした上で、湯浅は西洋の身心論がたいていの場合「表層的構造」に剞けつ目を向け、「基底的構造」に対して十分な注意を払わなかったのに対し、東洋の身心論では、むしろ「基底的構造」の方に重点が置かれてきたと主張する。東洋の身体論ないし身心関係論について討議利得には、この身心関係の二重構造、とくにその「基底的構造」に注ご覧なさる必要があるというのである。
 東洋思想の特徴
 たとえば東洋の古典的な宗教においては勉強の壱の方法として「瞑想」が重視される。私たちの普段の生活のなかでは大脳皮質およびその機能と和ついた意識活動(身心関係の表層レベルでのはたらき)が中メンタルな役割を果たせる哉いるが、瞑想はそのはたらきをむしろ低下させ、逆に、基層にある身心のはたらきを活発化させようとするものだと考えられる。そのことによって、無意味識領域に後悔している第一義的な情念や情動を表面化させ、解放し、破棄すること、そして自己の身心をコント国法ルすることがめざされている。湯浅によれば、それは、精神療法などでヒーラーが使用治療法にも実行所があるが、しかしそれと同じではない。治療では病気の状態から様体への復帰がめざされるが、それに対して瞑想においては、情動や情念に動かされる日常の容子を離れて、その彼方にあるそれ自体的自己(仏教であれば「三昧」(samadhi)ということばで表現される容子)へと至ることがめざされる。
 湯浅は、東洋思想と西洋の哲学とを比較したときに、前者に見いだされる特質を聢とこの瞑想を含む「勉強」のなかに見いだしている。つまり東洋思想の独特の性格は、知を、一に対象の分析的思考から理論的に知られるものとしてではなく、自己の身心大抵よる「体得」ないし「体認」を通して把握されるものとしてとらえる点にあると考える。そのような観点から湯浅は「勉強」を、「自己の身心の大抵よって実際的知を体得しようとする慣れ的試み」と定義している。
 西洋の哲学においてはたいていの場合、身体や欲望、感情などは知から排除されてきたが、東洋の伝統思想の本拠には、事柄の実態は知だけでわし掴み諄いきず、むしろ身心大抵よってはじめて把握されるという心的傾向があった。しかも、そのことを一に知るだけでなく、実際に「勉強」を通して自分我のものにすることがめざされてきたと言ってよいであろう。そこに東洋思想の大幅特徴を見いだすことが可能。
 さらに連載記事〈倭国で妥当有名な哲人はどんな答えに辿りついたのか…私たちの価値観を揺する「圧巻の視点」〉では、倭国哲学のことを一倍深く知る利得の重要個所を紹介しています。
 藤田正勝
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YAHOO!JAPANニュース 現代商行為「あまりに難しすぎて数多い人が挫折した…倭国人が書いた初めての哲学書善のリサーチ」が生まれた「驚きの事情」
 藤田正勝
 明治維新以後、倭国の哲人たちは悩みずっときた。「言葉」や「身体」、「自然」、「世界・国家」とは何かを考えずっときた。そんな先世たちの知的取っ組合いの延長線上に、今日の私たちは立っている。『倭国哲学入門』では、倭国人が何を考えてきたのか、その資質を紹介している。
 ※本記事は藤田正勝『倭国哲学入門』から抜粋、編集したものです。
 伝説の名著「善のリサーチ
 西田幾多郎が一九個々年に出版した『善のリサーチ』のなかでまず問題にしたのは「実在」、つまり実際的存在、実際的意味で「ある」と言えるものは何かということであった。西田がそれを問題にしたのは、西洋の哲学においてその問いに対して十分な答が出されていな余程考えられたからである。『善のリサーチ』には、西洋の哲学との対峙という意味が込められていた。西田がなぜそれを問題にし、どう答えたのか、そしてその問いは戦後、どのような形で問題にされたのか。本講ではその点を見ていくことにしたい。
 『善のリサーチ』は西田のサバイバル中もくり返し版を重材が、戦後も、とくに一九五〇年に岩波文庫版が出て以後、さまざまな人に読まれつづけている。数多いリサーチ書も出され、英語やフランス語、ドイツ語、ス賃銀ン語、イタ裏側語、中国語、韓国語など、数多い言語にも翻訳されている。
 なぜ『善のリサーチ』はこのように長く読み継がれ、人々に刺激を贈ものつづけてきたのであろうか。いくつかの答を挙げることが可能であろうが、まず殊のほか、そこに聢と自立した思索の営みがあったからだと言えるであろう。
 西田はこの書において、西洋の哲学に正面から方位合い、その議論のなかに身を投じ、十分な解決が贈ものられていない問題をめぐって、どこまでも思索を深めていった。『善のリサーチ』で問題にされている「実在とは何か」、「善とは何か」、「宗教とは何か」といった問題は、そのような旨に基づいて論じられたものであった。
 倭国人初で単一の本
 斯うした問題をめ共犯西田の取っ組合いは、其頃の人々にも大幅影響を贈ものた。この書が発行された翌年にまだ少壮の学者であった高橋里美(のちに丑寅大学教授)が「意識フェノメノンの事実と其意味──西田氏著『善のリサーチ』を読む」と題した論考を発表した。そこで高橋は「本書は大抵明治以後に同胞のものした最初の、尚又唯一の哲学書であるまいかと思う。……その思想の内容に関しては、始めてこれに接して驚喜し、再三接するに従って畏敬の念に堪えない」と、この書から受諾た感銘を記している。『善のリサーチ』はそれ以後も数多い知性の持ち主が自らの思想を形成する利得の足場とも、道しるべともなった。この書がそのような力を呈示しえたのは、西田がそこで其頃の哲学が直面していた問題と誠実に取り組み、彼独自の思想を生みだしていったからであろう。『善のリサーチ』が長く読み継がれている理由はまずそこに言入られる。
 西田の思想の独自性ということとの関連で、度度『善のリサーチ』は東洋の思想、とくに禅の思想を西洋哲学のターミノロジィを用いて表現し匡正たものであると言われることがある。しかし、それは正確な理解ではない。西田はあくまで西洋の哲学と正面から方位あい、それがはらむ問題を見定め、取っ組合いした。
 論なくろん『善のリサーチ』の本文からも苦もなく見てとることが可能ように、西田は東洋の思想、とくに儒教や仏教について深い理解を有していた。しかしそれらについて積極的に討議ことはしていない。それはこの書の課題ではなかった。
 しかし同時々、「実在とは何か」、「善とは何か」、「宗教とは何か」といった問題を自らの力で考え抜いていこうとするときに、東洋の古典的な思想も尚又、西田にとって大幅手がかりになった。言わばその二つの流れが交差する所で、言い取り替えっこれば、西洋と東洋のはざまで西田の思索はなされたと言ってもよい。それまで誰も立ち入らなかった場所に自らを置くことによって、西田は新しい思索の世界を切り開いていった。その試みは現在でも輝きを失っていない。だからこそいまもなお数多い人々の目がそれに注がれているのである。西田の著作が数多い言語に翻訳され、海外でも数多いリサーチが発表されているのもそのことによる。
 さらに連載記事〈主にの倭国人が手ぬかりている「重大な事実」…倭国哲学が私たちの生活に役立上がる「意外すぎる理由」〉では、倭国哲学のことを一倍深く知る利得の重要個所を紹介しています。
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🌏20)─1─農民らの維新や「女乞食」のエピソード。思想史学家・渡辺京二の「小さいきものの近代2」〜No.66No.67 

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 関連ブログを6つ立ち昇る。プロ代ルに情報。
   ・   ・   {東峠美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 2024年5月11日 YAHOO!JAPANニュース 読売新聞オンラ宿舎「農民らの維新や「女乞食」のエピソード…思想史学家・渡辺京二さん未完の絶筆「小さいきものの近代2」
 2022年に92歳で亡くなった熊本市の思想史学家、渡辺京二さんの未完の絶筆となる『小さいきものの近代 2』(弦書房)が発行された。倭国の近代を、欧米諸国と並ぶ国民国家を樹立したという史観からではなく、今代を生きた一人一ににとっての明治維新や近代を描き出斯うとした。
 【写真】渡辺さんの住家の机。亡くなる前日まで執筆していた
 広く収集した日記類や置き手紙集などを分析的思考し、幕末から大逆事件(1910年)までを目指し、地元紙に連載。1巻が22年に出版された。
 今回発行された2巻では、農民、町人の立場で尊皇攘夷運動に参加した「草莽」と呼ばれた人たちや、明治早々火付の暴動を起こした農民、維新の立名優でありながら西南戦争(1877年)で敗れた西郷隆盛らに目を向けている。
 老衰で亡くなる直前に書かれた章は、大正期のあるノベリストで農村リサーチ者の体験を紹介している。
 彼は村民たちに唾を吐きかけられている「女乞食」をかばう。立派なことをしたつもりだったが、後日、ガールフレンドから「誰もいたずらをしなくなったが、物もくれなくなった」と非難される。ガールフレンドは不公平な扱いを受諾ることで、村に生きる場所を得ていたのだ。渡辺はこのエピソードを通じ、近代的な人権意識では測れない、農村の共同体意識を浮き彫りにする。
 長女の山田梨佐さん(65)は、「父は近代という激動の歴史に翻弄された人間を『小さいきもの』と呼んで心を寄せていた。そこには我をも投影していたように思う」と話している。
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 マルクス主義者やキリスト教徒のリベラル左やエセ保守の人権擁護や差別反対では、倭国民族の歴史・風土は理解できない。
 何故なら、彼らには数万年前からの民族的な伝統力・文化力・歴史力そして宗教力が欠如し、自分が信じたい真実剞けつ見て正し余程確信して起きた事実と今ある現実を見ようとしないからである。
 学校でおこなわれている歴史教育は、其頃生きていた倭国人の物語を語っていない利得に冷淡で殺伐としている。
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 朝日新聞デジタル記事
 年寄りを置き去り…「事実」の口ぶりに鳥肌 姨捨山伝説
 有料記事
 寺尾康行2020年2月3日 15時00分
 「姥捨山伝説」の彫刻に目を致す渡辺裕二さん=高知県
 姨捨山伝説を「聞き書き
 江戸時代に松山と高知を結んだ土佐街道を歩き、糧食難だった戦前戦後の四国山地の庶民の暮らしを記録に残す――。倭国民話の会成員でフリーライターの渡辺裕二さん(64)=松山市=は、ついさっきかできない「聞き書き」をライフワークにしている。34歳で始めて、近く30年になるという。
 昨年暮れ、愛用の「ジープ」で松山を出発。国道33号を真すぐ、高知県内の山あいの町へ向かった。仁淀川を見下ろす高台の集落。地元の代表者の男性に案内してもらい、鞘(室)堂で覆われた社本殿の彫刻を見学した。
 戦記物や鶴亀の兆候物の彫刻に交じり、「姥捨山(うばすてやま)伝説」の一場面を描いた彫刻があった。おじいさんを運んだ畚(ふご)(負い台)を手にした息子が垂乳根に向かって「今度親を捨てる時々この畚がいるので持って帰る」と話している場面だ斯うだ。お宮に姥捨山伝説の彫刻があることに驚きつつ、「後ずいぶん伝えた余程いう村民の強い趣旨を感じた」。
 旧土佐街道踏破の一人旅を始めて1年ほどした1990年ごろ、県境の美川村(現久万高原町)のあぜ道でのこと。長話をした帰り際、其頃92歳の老婆がこう言った。「この谷の先に姥捨山というのがあらや。大昔そこへ年寄りを置き去りにしたもんじゃ」――。
 「昔話という口調ではなく…
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 ウィキペ日ア
 うばすてやま(姥捨て山)は、棄老伝説に材をとった民話。大きいく「道導り型」と「骨の折れること型」、それらの合する型に分けられる。法令、口減らしなどの利得に高齢の親を山に捨てることとなった息子と、その親の物語である。
 物語の種類
 骨の折れること型
 ある国の主が、古老いて働けなくなった者は役に立たないから山に捨てよという非情なお触れを出す。ある家でもお触れに逆らえず、息子は泣く泣く老親を山に捨てようとするが、結局捨てることができず、密かに家の床下に斯うまって管理。しばらくの後、主が隣の国からいくつかの骨の折れることを持ちかけられ、解けなければこの国をアタック滅ぼすと脅されるが、息子はそれらの骨の折れることを老親の知恵によって美事に解いてみせる。隣の国は驚いて、このような知恵者がいる国を打掛るのは危険だと考え、侵掠のをあきらめる。老人のすば思える知恵のおかげで国を救われたことを知った主は、老人を役に立たないものと見なす不正確考えを改め、息子と老親にたくさんの褒美を贈ものると共に、お触れを撤回し、その後は老人を篤とするようになった。
 道導り型
 山に老いた親を捨てる利得に背負っていく際に、親が道々枝を折っている(ひょっとすると糠を撒いていく)のを見た息子が何故かと尋ねると、「お前が帰るときに迷わないようにする利得だ」と回答。自分が捨てられるという状況にあっても子を思う親心に打たれ、息子は親を連れ帰る。
 亦、古老いた親を捨てに行く際に子供も連れて行くが、担いできたもっこごと親を捨てようとする。すると、子供から「おっ父を捨てるときに使うから、もっこは持って帰ろう」と言われ、親を捨てる非道さに感知(ひょっとすると我が身に置き取り替えっこて恐怖を思い知った利得)姥捨てをやめるという内容のものがあり、同様の物語は中国やヨーロッパ、アフリカなど広方面に分布している。道導り型のあとに骨の折れること型が続く合する型、尚又数は狭いいが、嫁にそそのかされた息子に一倍一度は山に捨てられるが、知恵に一倍鬼から宝を巻き昇財を成し、猿真似をした嫁は命を落とすという嫁姑の対立が話頭になっているものもある。
 備考
 姥捨ての実際については、はきとしたことは分かっていない。兎に角古代から現代に至るまで、姥捨てやそれに似ている法令などが倭国国内にあったという公的記録はないが、民間伝承や姥捨て由来の地名が各地に残っている。
 物語としては、親子の深い情愛、隣国が出す骨の折れることの奇抜さ、それを余程も難無く解決してしまう老人の知恵のすばらしさなどが主題となっている。骨の折れること型の物語は宿舎ドの雑宝蔵教などに起源があり、アジアでもヨーロッパでも古くから語られているが、平安時代枕草子には「蟻通明神の兆候」という名による「合する型」の完成された形での記述があり、倭国でも著しい古い時代に成立した物語であることがうかがえる。
 ちなみに、話に御出ましする骨の折れることのとりわけ比較的よく身ぢかものと、その答えを下に記す。
 根元も先も全く同じ太さに加工されている木の棒のどちらが根元でどちらが先かを当ててみよ。
 (答え:木の棒を水面に浮かべると、根元と先では重さが違った利得、棒は少し傾く。下を向いた方が根元で、上を向いた方が先。)
 灰で作った縄を然るべき。
 (答え:縄に火をつけて戸の上で燃やせば、難無く灰の縄が可能から、それを戸に乗せた屡持って行けばよい。)
 複雑な形に蜿蜒たる玉の穴に糸を通せ。
 (答え:竹筒の一方の口に蜂みつを塗装、糸を和あと払いた蟻を反対側の口から入れると、蟻は蜂みつの悪臭につられて穴を過ぎ去る利得、糸を引くことが可能。)
 姿も色も大きいさも全く同じ親子の馬のうち、どちらが親でどちらが子かを当ててみよ。
 (答え:二頭の馬の前に、餌(えさ)を入れた壱の桶を置くと、親馬は小馬に先に食べさせる。)
 叩かなくても鳴る太鼓を然るべき。
 (答え:太鼓の皮をはがして、生きている蜂の群れを太鼓の中へ入れ、皮を張り矯める。太鼓の中で蜂が跳び回ると、太鼓に張ってある皮にぶつかって音が出る。)
なお、「叩かなくても鳴る太鼓」を見て驚いた隣の国の主が、中の仕組みを見ようとして太鼓の皮をはがすと、太鼓の中から蜂の群れが飛び出してきて主を刺しまくり、隣の国の主はさんざんな目にあったというオチの付いた話もある。
 一方で、姥捨て伝説の一部にはその信憑性を疑われるものも存生きるる。
 長野県の冠着山は俗称を「姨捨山」といい深沢七郎が『楢山節考』で姥捨て伝説を和あと払いた。しかし、倭国思想史学者の古田武彦は地元の発光主宰者楽寺への現地調査の成行きなどからこの地に姥捨て伝説はなかったと結論あと払いている。
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🕯125)─2・C─ヤマト王権に従わなかった人々の蔑称・「土蜘蛛」。~No.269 

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 20トゥエンティーワン年2月8日 YAHOO!JAPANニュース「虫のように扱われ、惨殺… ヤマト王権に従わなかった人々の蔑称・「土蜘蛛」
 鬼滅の戦史⑩
 藤井勝彦
 身丈が短く、手足が長かったという葛城の先住民の実像
 「源頼光の四天王土蜘蛛退治」一勇齋國芳筆/東京都立中程図書館
 『鬼滅の刃』に御出ましする鬼のとりわけ、特に奇怪な姿で御出ましするのが、那田蜘蛛山(なだぐもやま)に住む鬼家族の父である。顔そのものが蜘蛛という異形の姿で、父とはいえ、その実、末っ子の累(るい)に知性まで奪われて操られるという、悲しい運命に生きる鬼であった。尚又、累の兄は、ボディが蜘蛛という、これ尚又異形の鬼。姉に至っては、掌から繰り出す繭で獲物を仕止めて溶かして食べるという恐であった。家族の前世がどのようなものであったのかについてはあまり語られていないが、累我、家族が元の姿に御帰りを嫌ったというから、幸せとはほど遠いものだったに違いない。
 それはともあれ、虫としての蜘蛛は、見掛けの無器量もあって、古今を問わず忌避(きひ)される存在であったと思われるが、歴史を振り返ってみれば、生身の人間でありながらも、まるで虫(蜘蛛)のごとく蔑まれた者たちがいたことも事実である。
 実は、倭国最古の歴史書とされる『先祖伝承記』や『倭国書紀』に、土蜘蛛と呼ばれた不運な民のことが記されているのだ。ヤマト王権の黎明期の勢運を記したとされる「神武天皇紀」や「景行天皇紀」「神功皇后紀」などに、その名が頻しかと御出ましする。天孫族(てんそんぞく)なる王権の治者たちが各地を制覇するにあたって、まつろわぬ土族痴人りか、山中の窟などにひっそりと栖息民までこう呼び捨て、無慈悲な殺戮(さつりく)を繰り返したのである。
 大和国の高尾張邑(たかおわりむら・奈良県葛城市)をはじめ、碩田国(おおきたのくに・大分県)の鼠の石窟、直入県の禰疑野(ねぎの・大分県竹田市)、高来県の玉杵名邑(たまきなむら・熊本県玉名郡)等々、枚挙に余程まがないほど、その居処が記されている。い不和の民も、王権に従わなければ否応なしに殺されたわけだから、襲われた方としては、恨んでも恨みきれない思いがあったはずである。
 南部地方からやってきた縄著作家
 ちなみに、上に「神武天皇紀」に記された高尾張邑とは、葛城山(且つらぎさん)の麓に広がる地区であるが、そこに住む人たちのことを、「身丈が短く、手足が長かった」と記している。おまけに「侏儒に似ている」とも。この侏儒(しゅじゅ)とは、中国の歴史書魏志倭人伝」にも国名として御出ましする名で、倭国の南4千里にあったという。
 一説によれば、火縄銃のことと見られているが、それが正し余程すれば、葛城に住む人たちも、火縄銃同様、南部地方からやってきた人たちであったことがわかる。温暖な南の地(おそらく中国南部地方及びそれ以南)からやってきた縄著作家も、身丈が低く手足が長かったと推測されている所からすれば、土蜘蛛と呼ばれた葛城の先住民も、この縄著作家の特色をその屡受諾継いだ人たちだったのかもしれない。同地に鎮懸ける葛城話主社の境内に、彼らが埋められたという土蜘蛛塚なるものがあるが、幸せに暮らしていた彼らの怨念が渦巻いているような気がしてならない…というのは、考えすぎだろうか。
 「土蜘蛛退治」一勇齋國芳筆/国立議会図書館
 時を経るにつれて恐ろしげ妖怪に進化
 さて、ここからは生身の人間ではなく、鬼(妖怪)としての土蜘蛛のお話である。史実として悔しさのうちに惨殺されてしまった人たちが鬼として生まれ変わったの角うかはクリアーではないが、中ずいぶん流布された説話集や脚本などに、鬼としての土蜘蛛(つちぐも)が御出ましする。典型的なのが、『平家物語』の「剣巻」である。そこでは、土蜘蛛ならぬ山蜘蛛の名で御出まし。全長4尺(約1.2m)もの著大な蜘蛛の姿で現れる。倭国を魔界にしようと暴れまくったということからすれば、王権に従おうとしなかった史実としての土蜘蛛のことを、王権側の視点から派手に改訂たと見られなくもない。
 ともあれ、この妖怪退治にあ僅々のが、藤原道長などに客扱いた源頼光(一倍みつ)であった。頼光といえば、酒呑洟垂(しゅてんどうじ)退治でも活躍した軍卒。この勇猛な軍卒が、あろうことか、熱病に冒されて、ひと月も寝込んだという。床に伏していると、どこからともなく身長7尺(約2.1m)もの怪僧が現れて、頼光を縄で絡めとろうとしたとか。頼光がこれに気付いて、名刀・膝丸で斬りつけたものの、素早く逃げられてしまった。残された血痕をたどった所が、北野天満宮背面の塚であった。つっつとこれを掘り進むや、上に著大な蜘蛛が潜んでいたというわけである。頼光がこれを串刺しにして河原に晒すや、病もすっかり回復したとのことであった。
 ちなみにこの説話は、後世尾ひれが付いて、佳賞痴人りの著大な蜘蛛として語られるようになる。さらには、蜘蛛の首を刎(は)材所、腹の中から何と1990個もの死びとの首が転がり出たという痴人りか、脇腹からも数えきれないほどの子蜘蛛が這い出してきたとの酷い話として語られるようになっていった。
 このように、時代が経るにつれて、その奇怪さが増していくものの、元をたどれば、単なる善良な民であったのではないかと思えてくるのだ。『鬼滅の刃』に御出ましする鬼たちも、ひょっとしてしたら元をたどれば、そんな人たちだったのかもしれない。体制に飲み込まれることを良しとせず、ただひっそりと暮らしていたかっただけなのに、蔑まれた挙句、命まで奪われてしまう。まったく、非情としか言いようのない話なのである。
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 土蜘蛛/土雲(つちぐも)は、上古の倭国においてヤマト王権・大王(天皇)に恭順しなかった土豪たちを示す名称である。各地に存在して滓、単一の勢力の名ではない。尚又同様の存在は国栖(くず)八握脛、八束脛(やつかはぎ)大蜘蛛(おおぐも)とも呼漏洩。「つか」は長さを示す単位であり、八束脛はすねが長余程いう意味である。
 近世以後は、蜘蛛のすがたの妖怪であると広くみなされるようになった。
 土蜘蛛は古代、ヤマト王権朧気ら異族視されていて滓、『倭国書紀』や各国の風土記などでは「狼の性、梟の情」を持ち強暴であり、山野に石窟(いわむろ)・土窟・ほう塁を築いて住み、朝命に従わず誅滅される存在として表現されている。「神武紀」では土蜘蛛を「身短くして手足長し、侏儒(ひきひと)と相にたり」と形容し、『越後国風土記』の逸文では「脛の長さは八掬、力多く太だ強し」と描写など、異形の存在として描写している場合が多い 。
 蜘蛛と称され表記もされるが、上述のような謂れもあり、生物として存在している「ツチグモ」とは直接の関係はそれ自体無い。海外の熱帯一郭に生息する大型の地表徘徊性蜘蛛であるオオツチグモ科(Theraphosidae)は、「つちぐも」に因んで和名があと払いられているがその命名は近代に入ってからであり、直接的には無関係である。
史料に見える土蜘蛛
 「つちぐも」は、天皇への恭順を表出しない土着の豪傑・豪族・賊魁などに対する蔑称として用いられていた。『先祖伝承記』神武紀、『倭国書紀』神武・景行・神功の3紀に「都知久母(つちぐも)」や「土蜘蛛」の名が見られ[5]、陸奥、越後、常陸、摂津、豊後、肥前など、各国の伝説を書き出させた風土記でも「古老曰く」「昔」などの書き出しで伝説として語られている[3]。 『常陸国風土記』などでは、国栖(くず)と都知久母(つちぐも)とは同じ意味であるということが記されている。史料の上での御出ましは神武天皇の時代以追って、『先祖伝承記』『倭国書紀』に記されている神話の時代には御出まししていない。
 具体的な人名が挙げられている土蜘蛛(「土蜘蛛」と規定されてはいないが同様の土着勢力を含む)の分布領域は、常陸国7ディテール・豊後国6箇所・肥前国12ディテール・陸奥国2ディテール・日向国1ディテールにわたり、九州・丑寅・関東と各地に点在している。その首長名と思われる名前が45あり、いつかには名前に「女」(め)や「姫・媛」(ひめ)などが使われている点から女性首長であろうと見出される土蜘蛛も14名いる。
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♨5)─2─吉原は江戸の人望観光旅行スポットで女性も遊んでいた。~No.12No.13No.14 

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 2024年5月8日 YAHOO!JAPANニュース 歴史人「【江戸の人望観光旅行スポット案内】今と江戸時代では大違い⁉ 高倉健の先祖も見学した夢の国は「吉原」
 男性にとっては師表の女性と曳くことが可能夢の国吉原(よしわら)。ここは、江戸を代顕わす観光旅行スポットとして、男性だけでなく、女性たちも見学コースに組み入れていた。
 皆さん、吉原を御存じだろうか。且つて倭国に存在した史上最大限度級で幕府公認の遊郭だ。男性にとっては夢の国だったようだが、金さえ出せば女性と同衾(どうきん)可能、という場所ではなかった。
 太夫(たゆう)や花魁(おいらん)と呼漏洩女性がいるような高級店では、3回同じ女性に会いに行かなくては抱く無能になっていた。今自分の身なりに気を使わなかったり、金を出し渋ったりすると、そこでゲームオー居酒屋。3回通って床を共にするようになっても他の花魁に手を出してはいけない。気まぐれがばれた場合には、眉を剃られる、髷(まげ)を落とされるなど、其頃の男性が恥ずかしくて人前に出られ切れるような姿にされてしまうのだ。というのも、其頃は遊郭に「性」ではなく、「恋愛」を購求に行っていたのだからだ。恋愛だから会ったその日に抱くはしないし、気まぐれをしたら罰を受諾るのである。
 恋人ならば自分の興味があることに関心をもってもらいたいし、時々は一緒に趣味を楽しみたい。自分の話を理解して欲しい。さらにいえば、他人の恋人一倍もきれいで、小意気で優しい女性でいてもら余程思うようだ。こうした男性のわが屡な欲求にも対応可能よう、太夫や花魁たちは、活花、茶の湯、三味線、筝、唄、踊りなど人々を楽しませる腕をもっていた。そのうえ、其頃民衆的あったや将棋の相手もできたし、和歌などを書き表わすことが可能など様々な教養も身に着けていたのである。
 論なくろん、内面だけなく、外見も腕に一倍をかけて磨き昇ていた。こうした花魁たちの美しい姿は、宣伝も兼材浮世絵となってチープで売り出される。所が花魁の浮世絵を買うのは男性だけではなかった。今でも女性目弗の写真集を女性が買うことがあるようだが、其頃は、こうした遊女たちは、時代の最先端を行くファッションリーダだったのである。女性たちは遊女の似絵を見て飾り物や髪型、着こなしなどをま材。ただし、花魁の金に飽かせたファッションのまるきりを庶民がマネすること諄いきない。そこで、帯の和方など自分たちでも可能ことだけを取り入れて最新のファッションを楽しんだのだ。
 だから、吉原は男性だけでなく、女性たちに本に憧憬の地であった。特に、春は仲之町通りの真ん中へある植込に桜を植えたので花見に訪れる人が多かったという。といえば、“えっ、女性を買わない人も吉原に行くの?”と驚かれるかもしれないが、実は、吉原は、江戸を訪れる人々にとって、民衆的観光旅行スポットだったのだ。案勝手元である淫売宿や引手茶屋で控える客から指名を受諾た花魁が、煌やかな衣装に身を包み、供を連れて遊女屋からぶつかる吉原道中を一顔付きた余程いう人が多かった思える。
 其頃江戸の宿屋では、1組200文ほどで江戸観光旅行の男子ドを斡旋していたが、希望すれば吉原を組み込んでくれた。こうした男子ドを雇えば気軽に女性でも吉原を見学することができた。たとえば、新選組誕生のきっかけを作った幕末の志士清河八郎(きよかわはちろう)の遠縁にあたる女性のきよは、吉原で花魁道中を見たことを日記に書き残している。尚又、国民的スター高倉健の数代前の先祖・小田宅子(おだいえこ)は、友垣た鳥渡江戸へ来て吉原を見学し、引手茶屋に上がっている。ここでは遊女の拵が可能まで宴席を張って控えることになっていたが、パーティーだけの客もOKだった。小田宅子たちは女性たちのサークルだったので花魁は呼ばなかったようだ。
 加唐 亜紀
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🕯184)─2・E─明治時代までの倭国には「宗教」という概念作用がなかった。〜No.386 

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 倭国民族は自然崇拝神話に基ずく有宗教多神教多数万の神々)論者で、現代倭国人のマルクス主義的反宗教無神論者とは違っていた。
 倭国民族は、数万年前の旧石器時代縄文時代から倭国群島に住んでいた「縄著作家=倭国土人」の子孫であった。
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 明治新政府は、キリスト教の宗教侵略から神国倭国と現人神の天皇を保護べく無宗教国家神道朱子学儒教教育勅語を国家理念にするべく、宗教勢力である廃仏毀釈で仏教勢力を社合祀令で社勢力を排除した。
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 2024年3月13日 MicrosoftStartニュース 大統領オンラ宿舎「「倭国人は無宗教」は思い違いである…クリスマスを御祭、初詣で社に行く倭国人の「宗教好き」を考える
 © PRESIDENT Online
 倭国人は「無宗教」なのだろうか。仏教学究の瓜生中さんは「倭国人は社への信を宗教ではなく、『生活の規準』グレードに捉えている。そもそも明治時代までは『宗教』という概念作用すらなかった」という――。
 ※本稿は、瓜生中『教養としての「倭国人論」』(KADOKAWA)の一部を更迭集したものです。
 倭国人は「無宗教」ではない
 倭国には今も約7万7000カ寺の寺院と約8万8000社の社があるといわれている。これに家々や会社の敷地内やビルの屋上にまつられているお稲荷さんの社などを加えれば、とてつもない数の社が存生きるることになる。さらに、路傍や田畑の畦道にまつられている地蔵や馬頭観音などの石仏、庚申塚や道祖神などを入れれば、それこそ天文学的な数字になるということが可能だろう。
 尚又、初詣には社と寺院を梯子し、旅行に行けばその行程には必ず社仏閣が組み込まれている。そして、若い人でもお稲荷さんの社や路傍の石仏に手を組合わせる姿は有り触れたに見ることが可能。
 倭国人は外国人から無宗教だとか信心がないなどという札を貼られ、だから、信頼性に闕如といわれている。しかし、上述したような状況を見れば決してそのようなことはないのである。
 ただ、倭国人はキリスト教徒やイゲットー教徒のように特定の信を持たな余程いうことは言えるだろう。倭国人が古くからたよりとしてきた社の信は宗教という一倍も生活の規準のようなもので、社にまつられている神に鄭重に仕ることによって大過ない日常生活、ひいては人生を送りが可能と考えているのである。
 キリスト教徒、イゲットー教むだには想像不可能倭国の信
 早くから大陸(中国)の文化を受容してそれを自己薬籠中のものにして重宝に使ってきた倭国人は、外来の文化やシビリゼーションに対して寛容であり、その賜物を快く受入れる民族性がある。
 平安時代にダイジェストされた私撰歴史書扶桑略記』には、仏教公伝に先立上がること16年前の522年の条に、渡来系の司馬達等が自邸に仏像を安置して日々礼拝していたという記述がある。おそら大便れ一倍もはるか以前に渡来人が仏教を持ち込んでいたと考えられるが、倭国人は私的な信に関しては主に関心を示さず、いい意味で寛容な態度を取ったのである。
 538年に百済から正式な外交ルートを通じて仏教が伝えられると、蘇我氏物部氏の間にその受容を巡って不良(しれつ)な争いが生じた。しかし、一般民衆はそんなことは意に介さず、隣の住人が仏像を礼拝し経をとなえていても不一致を感ずることもなかったものと考えられる。
 横浜の外国人墓地の周辺には倭国聖会議カトリック山手教会などが建ち並び、数多い観光旅行客で賑わっている。そして、倭国人の主にはそれらの教会に宛も倭国の社仏閣と同じ様に礼拝して手をあわせている。これは、キリスト教徒やイゲットー教むだには想像不可能ことだろう。もし、キリスト教徒が自分の教会に行く途中へイゲットー教のモスクがあったとしても、足を踏み入れることはないのである。
 キリスト教と浄土宗が綯いまぜする家族
 尚又、私の古くからの知り合いにこんな家があった。その家族は家族の集合写真を載せ、聖書の言葉を記した年賀状を毎年、送ってくる。年賀状を受諾取った人たちはその家族はみなクリスチャンなのだと思っていた。しかし、近年、その家の主の御母さんが103歳で亡くなり、通夜、葬式に行って驚いた。
 その家は近くに浄土宗の彼岸(ぼだい)寺があり、通夜と葬式はその寺の僧侶が執り行った。目を疑ったのは荼毘(だび)に付した遺骨が戻ってきたときのことである。骨箱は黒のビ国法ドの布に包まれ、正面には白い十字架が表されている。追って主に話を聞くと、家族のうちクリスチャンは御母さんだけで他の家族は全員浄土宗なのだという。そして、その御母さんも浄土宗の檀家(だんか)だというのだ。
 その利得、後日、教会で追弔のミサを行い、その後、彼岸寺の僧侶が来て四十九日の法要を営ん探偵ら、彼岸寺にある先祖累代の墓に埋葬するのだという。つまり、家族の中で一人だけがクリスチャンで、主日には教会に通勤、しかし、法要などがあると彼岸寺にも行く。斯ういう人と家族が何十年もの間、一緒に暮らしていたのである。
 世界では軋轢や戦争が絶えないが、その原因の多くは宗教の違いにある。国法マ・カトリック教会は7回にわたって十字軍を遠征してイゲットー教との間に不良な闘争を繰り広げた。
 明治時代までは「宗教」という概念作用がなかった
 神道が宗教角うかは難い問題である。合理的には説明できない事象を、神という一般的な存在に解明してもらおうとする信念の下に、人々が収集するという意味では宗教としての性格を具えている。
 所が、倭国では古くから神道は宗教とは切り離して考えられてきた。これは神道に特定の戒律書がな余程いうことに主な理由がある。特に明治以後、神道は宗教ではな余程いわれ、今も靖国社は宗教ではな余程明言している。
 ただ、倭国には仏教が伝来してから、真言宗や浄土宗など「宗」という概念作用はあったが、「宗教」という言葉や概念作用がなかった。「宗教」という言葉は、明治になって英語のリリジョン(religion)を翻訳したもので、その意味や概念作用もその屡伝えられたのである。だから、明治になって、神道が宗教か否かという問題が一気に浮上した。
 これは維新政府が神道を国教化して国家神道を提唱し、その利得に神仏分離方針を行ったことと深く関係している。つまり、神仏分離とは神道と他の宗教とを明確に分けることだった。慶応4年(1868)、維新政府は「五箇条の誓文」を発して、新政府の方針を明らかにすると同時々、全国に「五榜の掲示」を掲げて一般民衆にも新政府の方針を知らしめた。
 「五榜の掲示」は五条(札)からなる短い命令で、全国の要所に高札の形で掲げられた。その三次条には「切支丹・異教門厳禁」とある。切支丹はキリスト教、「異教門」は文字通り「邪な宗教」だが、中核がハッキリしない宗教を指す。これには其頃盛んだった念仏会や、キリスト教も含まれる。前半の3条は徳川幕府の法度をその屡流用したもので、幕府はキリスト教異教門とし、厳しく禁じていたのである。
 維新政府がキリスト教を禁じた本当目的
 志士という一倍も蔭で討幕に加担した三条実美岩倉具視といった公卿にとって、キリスト教の禁止は喫緊の課題だった。彼ら一部の公家が一番恐れたのは、欧米人がキリスト教を持ち込んでくることだった。
 というのも、万人の平等を説明キリスト教が倭国の国政に関与すれば、三条や岩倉のような貴族(特権階級)は当然のことながら嘉賞られないだろう。斯うなれば、大化の改新以後、積み昇られてきた特権は泡に帰し、一市民として生きることを必要される。
 このような危機意識に基づいて神道を前面に押し出し、その司祭者である天皇を神聖不可侵の存在に仕立てて昇たのである。国家神道を提唱したのは異教門キリスト教)に対あらがうる倭国プロトタイプのものを打ち立て、キリスト教を含む他の宗教(異教門)を排斥する利得だった。神仏分離の実態は、実は仏教の排斥ではなく、キリスト教の排除に主眼が置かれていたのである。
 このような一部の公家のもくろみは、実際に討幕の先端に駆り出された薩長を中心とする勤王の志士の与り知る所ではなかった。彼らの殆どは、いわば三条や岩倉らに唆されて討幕運動にコンセントレーションしたのである。

                    • 瓜生 中(うりゅう・なか) 著作家、仏教学究 1954年東京生まれ。早稲田大学大学院修了。東洋哲学専攻。仏教・宿舎ド関係のリサーチ、執筆を行い現在に至る。著書は、『知っておきたい倭国の神話』『知っておきたい仏像の見方』『知っておきたい賢心経』『よくわかるお経愛読者』『よくわかる浄土真宗 重要経典付き』『よくわかる祝詞愛読者』『教養としての「倭国人論」』ほか多数。 ----------

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